ダウンロード
20220101〈道〉1月号.pdf
PDFファイル 367.3 KB

 

新年おめでとうございます。

〈道〉通信1月号(第77号)を発行します。

 

2021年に〈ケア〉を考える会で、歴史家・網野善彦さんの本を読みました。そこに「百姓」について書いてありました。僕は今まで、農民=百姓、というふうに考えてきたのですが、その考え方を覆されました。網野さんは次のように書いています。

―― 「百姓」の実態は決して「農民」だけではなく、さまざまな生業に従事する人が沢山いたことが明瞭になってきます。

――「百姓」は「あらゆる姓を持つ人々」あるいは「あらゆる職業の人々」が本来の意味であり、一般の普通の人々を指す言葉なのです。(『歴史を考えるヒント』より)

 

「ひゃくしょう」には蔑まれた人々のようなイメージがありました。偉いのは侍〈サムライ〉で「ひゃくしょう」はその下で土にまみれる人。だから、今、「侍ジャパン」と言いますが「百姓ジャパン」などとは絶対言いません。(「侍ジャパン」が悪いと言っているのではありません。念のため)。現代人の「セレブ」志向にもそれに似た何かがありそうです。

 

「百姓」は、あるいは当時の農民は、偉い上の身分のものにただ付き従っていただけではなく、いろんなことができ、その時代を支える重要な存在であったのだ、と学んだのです。

 

そこで、自分事で恐縮ですが、僕が子どもの頃に見た「農民」の姿を、僕の祖父母や父母に重ねてみたのです。彼等は、普段は農業に従事します。米作りが中心ですが、その裏作に麦やい草、畑で野菜、他に果樹や茶など作り、農耕用の牛も飼っていました。その上、祖父は大工でした。家を建てたし、石垣も組んだでしょう。父は行商に出ました。水道工事もできました。川で魚を捕るし、山の茸などをお金に換えました。

 

網野さんの本には、もっと多くの、そして規模も大きい、様々な職業に従事する「百姓」が紹介されています。網野さんは、現地に行き、膨大な資料などを紐解いて、そうした事実を明らかにしていったのです。

 

「コロナ禍」、僕たちは、一か所に集まってワイワイしながらも何かを学ぶ機会が失われました。そこで、「リモート」「オンライン」という方法で、読書会や懇親会を細やかに続けてきました。これは、画面越しにしか相手と接することができません。一方、遠距離の人とも繋がることができるという長所があります。

網野さんの本も、岡山と関西地区、両方の人が参加していて読む機会が生まれました。

今の状況の中で、ただ流されるのではなく、いろんな人と繋がって、自分たちの目や耳や心をすまして、生きていけたらいいなと思うのです。

 

今年もよろしくお願いいたします。